「彼女の歌声は、もう聞けない」  そのA


 彼女に促されて、夜の病院を歩く。音も無く、視界もうっすらと輪郭が見える程度の中、彼女は僕の手を引きながら、どこかへと向かっていく。その手は、数時間前に結ばれた時から、一度たりとも離れていなかった。
 階段を昇り、三階を越えて四階へ行く。誰とも出会わず、また前を行く彼女もあまり振り向こうとはせず、さっきまでとは随分様子が違っていた。
 四階の一番奥の扉を、彼女は開ける。そこにはベッドも何も無く、一台の大きなグランドピアノが置かれていた。カーテンの閉められた室内は暗く、ピアノの黒光りがより一層濃く見える。
 彼女は僕をピアノの所まで連れていくと、椅子に腰掛けさせた。僕の脳裏に何かが通り過ぎていく。痛みにも似た刺激が駆け抜けていく。でも、その何かは霞がかかったようにぼんやりとしていてはっきりしない。手をのばせば届きそうなのに、それは幻のように輪郭をとどめてはくれない。
 彼女が微かに笑いながら、ゆっくりと目の前のフタを開ける。白と黒の鍵盤が見えた。見慣れているような、でも、初めて見るような、不思議な感覚がある。無数の鍵盤は何も言わず、僕の目の前でたたずんでいる。
「‥‥」
 彼女の手が僕の手を掴み、鍵盤の上に持っていく。自然と手が震える。何故震えるのか分からない。でも、この感覚は知っている。身体全体に染み込んでいるような、得も知れぬ感覚。でも、それは決してはっきりしてくれない。
 手を離し、彼女は僕に背を向ける。頭の先から足の先までを一直線にして立ち、何か待つかのようにじっとその場に立ちすくむ。そして、首だけを動かして、僕をじっと見つめる。
「‥‥」
 僕は何をしていいのか分からなかった。両手は鍵盤の上に置かれている。彼女は何も言わずじっと僕を見つめている。
 弾けばいいのだろうか? 僕がピアノを弾けばいいのだろうか? でも、何を弾けばいい? それ以前に、僕は弾けるのだろうか? 
 右手の人差し指で、真下の白い鍵盤を押してみる。何の音もしない。弦が切れているかのように、いくら押しても音も出ない。僕は彼女を見る。彼女は期待に満ちた瞳で僕を見つめ返している。
 頭が痛くなる。頭痛なんてものじゃない。脳が直接揺さ振られているかのような、激しい痛み。鍵盤に立て肘をつき、頭を抱える。痛みは消えない。何かが無理矢理裂けていく痛み。彼女が駆け寄り、僕の肩に手を添える。痛みが増々激しくなっていく。
 彼女がこの痛みの原因なのだろうか? それとも、ピアノが原因なのだろうか? 分からない。でも、僕は思い出そうとしている。欠けた記憶を。でも、それは形になってくれない。砂嵐の中の記憶の欠片が、僕の脳を傷つけていく。
 それは拒絶したい程の痛みだった。左腕に付けられた無数の傷が疼く。堪え難い程の痛みが、脳と左腕から伝わってくる。それは伝わる、と言うよりは流れてくる、と言っていい程直接的にやってくる。
 僕は心配そうに肩を揺さ振る彼女の体を押した。強く押したのか、弱く押したのかは分からない。でも、彼女は後ろに飛んで尻餅をついた。黒髪が激しく宙を舞い、その隙間の中で見えた彼女は、目を大きく見開き、驚愕の顔をしていた。
「‥‥」
 痛みがほんの僅かだが消える。でも、痛み自体は以前として消えない。吐き気さえ催してくる。僕は椅子から立ち上がり、泣きそうな顔の彼女の顔を横目で見ながら、部屋から出た。
 痛みは嘘のように引いていった。身体全体から力が抜け、僕の扉を背にしながらその場に跪いた。額や頬から大量の汗が流れ出ていく。床に落ちて、灰色の染みを作る。
 僕は彼女の事が気になった。後ろを振り向くと扉がある。その取っ手を握ろうとするが、そうすると再び痛みがぶり返してくる。僕は取っ手が握れなかった。彼女の事は心配だったし、失った記憶も取り戻したい。でも、それら全てをかき消すように痛みが頭を覆っていく。
 僕は床に這いつくばりながら、近くの長椅子に腰掛けた。そこで、彼女が出てくるのを待った。謝らなければいけない。突き飛ばしてしまった事。何も弾けなかった事。そして、何も思い出せなかった事。全てを謝らなければいけない。言葉は言えない。でも、きっと方法なんていくらでもある。何でもいい、どんな形でもいい。謝りたい。
 でも、彼女は出てこない。いつまで経っても出てこない。どのくらい時間が経ったのか分からない。一分かもしれない。一時間かもしれない。分からない。でも、いくら待っても彼女は出てこなかった。
 廊下の突き当たりのある窓から、月の光が差し込み僕を優しく包み込んでくれる。まるで鳥の羽に抱かれているような、穏やかな気持ちになっていく。それが睡魔だと気づくのに大して時間はかからかった。
「‥‥」
 僕は必死に目をこじ開けて、眠気に耐えた。でも、月光はいつまでも僕を離してくれない。ゆっくり立ち上がり、再び取っ手を掴もうと手をのばす。でも、再び痛みが、今度は身体全体を縛り付ける。僕は痙攣を起こしながら椅子に戻る。ダメだ。いくらやっても、僕は扉を開けられない。
 何故だろう。何故、僕は扉を開ける事が出来ないのだろう。分からない、思い出せない。僕の過去に、一体何があったのだろう。後少しで思い出しそうなのに、思い出せない。霞がとれない。霞の向こうに誰がいる。黒い服を着て、立っている。その隣に、白い服を着た人もいる。じっと立って、決して僕に近づこうとしてくれない。誰なのか分からない。
「‥‥」
 月光よ。消えてくれ。今だけでいい。無くなってくれ。僕にはどうしても扉を開けられない。扉の向こうに彼女がいる。僕は彼女に会って、謝らなければいけない。彼女が出てくるまででいい。月光よ、消えてくれ。
 それが僕が最後に思った事だった。


 誰かが僕の肩を揺さ振っている。僕はハッとして目を開ける。いつ眠ってしまったのか分からない。でも、肩を揺さ振られた時、僕は確かに眠っていた。
「‥‥」
 目の前にいたのは彼女ではなかった。食事を運んでくれた看護婦さんだった。その顔はとても険しいものだった。今にも叫びだしそうな顔で、僕の両肩を揺さ振っている。
 僕は体を起こした。いつ横になったのかも思い出せない。気がつけば、月光はどこにも無く、静かに陽光が僕と看護婦さんを照らしていた。
 看護婦さんは僕の右腕を乱暴に掴み、無理矢理立たせた。体はひどく重く、足に力を入れないと立っていられなかった。
 看護婦さんが目の前の扉に手をかけて開く。そして、僕の手を掴んだまま中に入っていく。僕は途端に恐くなった。またあの苦しい痛みを味あわなければいけないのだろうか。嫌だ。それは嫌だ。僕は懸命に抵抗するが、看護婦さんの力は凄まじく、僕は引きずられながらピアノのある部屋に入れられた。
「‥‥」
 痛みは無かった。昨日の事が嘘のように、何の痛みも無かった。僕は少しホッとした。でも次の瞬間、彼女の事が気になった。
 彼女はいなかった。どこにもいなかった。僕が寝ている間に部屋から出ていってしまったのだろうか。分からない。でも、この部屋は昨日と一つだけ違う事があった。
 窓が開いていた。昨日は確かに閉まっていたのに、今は全開になっていた。看護婦さんは鬼のような形相で、僕を窓の近くに連れていき、そして僕の後頭部を掴むと窓の下を覗かせた。
「‥‥」
 そこに彼女はいた。灰色のコンクリートの地面の上に、血だらけで。ピンクのパジャマは深紅に染まり、昨日までは綺麗だった黒髪が今はドス黒くなって、コンクリートの上で真っ赤な花が開いていた。
 赤い花の中で、彼女は目を見開き、涙を流しながら息絶えていた。手も足も変な方向に曲がり、とても悲しそうな顔をしている。全てを失って絶望したかのような、そんな見るに耐えない顔をしていた。
 看護婦さんが僕の顔を無理矢理室内が見える程に曲げる。首に痛みが走り、僕は体を室内の方に向ける。
「‥‥」
 大粒の涙を零しながら、看護婦さんは僕に何かを言う。でも、その声は聞こえない。肩を揺さ振る手から微かな震えが伝わる。絶叫するかのように、看護婦さんは大口を開ける。でも、そこから声は出てこない。
 その時、僕は気づいた。
 僕は耳が聞こえなかったのだ。だから、看護婦さんの声が聞こえないのだ。
 そして、今全てが思い出された。閃光が脳裏を突き抜け、霞が消えていく。全てを思い出した。
「‥‥」
 僕はピアノが弾けた。いや、弾く事だけが、僕に出来る事だった。僕はピアノの演奏者で、多くの会場でピアノを披露してきた。そしてその時、僕のピアノに合わせて歌っていたのが彼女だった。
 僕と彼女はベストコンビだった。僕の奏でる旋律と、彼女の立琴のような綺麗な歌声はまるで元々が一つだったかのように重なり、会場を埋め尽くした。会場に来ていた観客はいつもその音楽に聞き惚れていた。
 彼女が持っていたあの楽譜。あれは僕と彼女が生まれて初めて一緒に演奏した曲だ。もう何年も前の曲。まだ幼かった僕と彼女が、何日も眠りもせずに作った曲。必ず演奏会の最後はあの曲をやっていた。あの曲が流れる度、観客席からは終わる事の無い拍手が巻き起こった。
 最初は嬉しかった。自分の弾いたピアノと彼女の歌声で、多くの人達が感動してくれる事を素直に喜んでいた。でも、僕には次第にそれが苦痛になっていった。聞かせたい、という思いが、聞かせなければならない、という脅迫じみた思いへと変わっていった。
 毎日毎日練習をして、それでどんな会場であろうとも完璧な演奏をしなければならなかった事に、僕は堪え難い苦痛を味わうようになった。
 彼女はそんな僕を優しく慰めてくれた。どんなにきつい練習にも、彼女は文句一つ言う事無く、大丈夫、あなたならきっと出来るわ、といつも言っては、僕の抱擁にも答えてくれた。でも、僕はそれが逆に嫌だった。彼女の事は愛していたのに、そう言う時だけ好きにはなれなかった。
 左腕に付けられた傷。あれは僕がつけたものだ。いくら彼女が慰めようとも、僕の苛立ちとストレスは消えなかった。だから、何度も死のうとした。でも、出来なかった。だから、今ここにいる。何度も見た、という記憶のあった病院の風景。僕は何度もカッターナイフで自分自身を傷つけてはこの病院に入れられたのだ。
 何回目なのか、それはもう覚えていない。でも、カッターナイフでは死ねない事を知った僕は、病院の屋上から飛び降りて死のうとした。その時だろう。耳を痛め聴覚を失い、頭を痛め記憶を失った時は。でも、僕は死ななかった。あんなに高い所から落ちたのに、死ななかった。そして、またここに入れられた。
 そして、目覚めた僕は彼女と出会った。本当は初めてなんかじゃない。もう何度会ったか分からない程、僕と彼女は出会っていた。
 彼女もここに入院していた。僕のせいで公演はことごとくキャンセルになり、彼女も口には出さなかったけれど、極度のストレスを感じていたのだ。そして、彼女も僕同様、ここに入院する事になった。
 でも、彼女は喋れないわけではなかった。喋れたのだ。だから、昨日、ここに来てピアノの前に立ったのだ。きっと彼女は僕の耳の事は知らなかったのだろう。耳が聞こえなくなった人間にピアノを弾かせようとするだろうか? 歌声を聞かせようとするだろうか? 普通はしない。きっと彼女は再び僕にピアノを弾いてほしいと何も知らず願っていたから、僕をこの部屋に連れてきたのだ。
 でも、僕は耳が聞こえなかった。自分の弾くピアノどころか、彼女の歌声だってもう聞く事は出来ない。あのピアノだって、弦が切れていたわけじゃない。昨日、人差し指で叩いた鍵盤からは、音がしていたのだ。
「‥‥」
 その彼女が自ら命を断った。それは間違いなく自分のせいだ。昨日見せてしまった拒絶。あれは君を拒絶したわけじゃない。そう言いたかった。そう言えれば、彼女はもしかしたらまだ綺麗な笑顔を僕に向けたかもしれない。
 いや、例えそう言ったとしても、彼女はきっと命を断っただろう。僕はピアノを弾くのを拒絶した。だから、ピアノのあるあの部屋から出たら痛みが消えたのだ。聴覚を失ったのも、もしかしたら僕の意志だったのかもしれない。
 ピアノと歌声、それだけが僕と彼女を繋いでいた。愛も体の一体感も、全てピアノと歌声という繋がりが無ければ存在していなかった。
 僕はその繋がりを拒絶した。だから、彼女は命の糸を断ち切った。その拒絶を何もかもの否定として受けとめてしまったから。
「‥‥」
 ピアノを弾く事が出来なくなった僕。彼女の歌声を聞く事すらも出来なくなってしまった僕。そんな僕に、何が残っているだろう? 何も残ってはいない。切れたのはピアノと歌声という繋がりだけではなかった。愛も体の一体感も、何もかもを僕は昨日、無残に断ち切ってしまったのだ。
 体から大切な何かがすっぽりと抜け落ちてしまったかのような空虚さを感じる。その穴に何もかも落ちてしまい、涙さえ出てこない。
 目の前の看護婦さんが何か言っている。あなただって、とっくに気づいていたんだろう? 僕の耳はもう何も聞こえない、という事を。だったら何故、僕に話し掛けるんだ? 何も聞こえないんだ。無駄だよ。そう、こんな僕を救う事も、無駄だよ。
 看護婦さんが僕の腕を掴もうとする。僕はその手を弾き、後ろに体重をかけた。体が後ろに流れていく。そして、その体は一瞬だけフワリと浮いて、そして次の瞬間には下へ落ちていた。
「‥‥」
 下には彼女が待っている。もう冷たくなっているけれど、待っている。何の心配もしていない。もう少しで、きっと僕も冷たくなるのだから。
 でも、とても残念な一つだけある。
 彼女の歌声は、もう聞けない。
                                                                     終わり


あとがき
今はもう違うんですが、これを書いていた頃(多分大学1〜2年の頃)は静かな恋愛が好きだったんで、書いたものです。何を元に書いたのかも覚えていません。勿論、モデルとかもいません。いたらイヤだけど。
昔はきっと「これって凄い傑作じゃん」なんて思ってましたけど、今思うと何か野暮ったい感じがするな〜(直さないけど)。


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